自己

現代文読解への道(2)テーマ編①自己(私)の捉え方

現代文の勉強方法がわからない。

文章の内容によって、点数がマチマチ。。

国語、前まで得意だったんだけどなぁ。。

 

など、悩んでいる方が多いのではないでしょうか。

私自身も中学生の頃からそういう悩みがありました。

 

しかし!高校2年生の頃に考え方が劇的に変化し、センター試験(現共通テスト)も現代文は満点でした。

 

そんな私が取り組んだ勉強法がこちらになります。

その中で、テーマ別の予備知識が必要であることをお話しました。

 

今回からはテーマ別に必要な予備知識についてまとめていきます。

ぜひ、高校生であるにも拘らずダラダラSNSを見ている時間があればこれを読んでみてくださいね☺

 

 

自己・私とは?

自己と言う言葉を聞くと、デカルトの言葉が真っ先に頭に浮かびます。

 

「我思う故に我あり」

 

デカルトは、数学者としての偉業も残している中で、哲学者としても有名です。

彼の生きた時代は17世紀。

 

時代の流れを理解するためにもう少し遡って考えていきましょう。

 

ルネサンス(14世紀~16世紀)

 

14~16世紀の間にヨーロッパでルネサンスが興りました。

ルネサンスとは、人々は絶対的な存在である神に仕えるものとして存在するという考えでしたが、この革新運動をきっかけに、ローマ・カトリック教会の権威によらず、自己の理性と感覚を頼りに、自由に世界を考えていこうとする気運が高まったのです。

 

人間としての個性や合理的な考え方を尊重することを求めた人間開放運動となり、個々の価値観に大きな変化が訪れます。

ここで人間は「考える」ということをし始めるのです。

この土台があって、デカルトのような天才が生まれるわけです。

彼は、実際に目に見えているものが果たして本当に存在しているのか。ということに疑問を抱きます。

まさに夢から覚めたあとに現実か夢かがわからなくなっている感覚ってありますよね。

もしかすると今、私たちが現実だと思っていること全体が夢なのかもしれないと。

徹底的に疑いはじめ、ある一つの結論に至るわけです。

 

それが、目の前のものごとを疑っているこの「私」は必ず存在するということ。

その疑う意識だけは間違いなくここに存在すると。

つまり、その理性こそが学問の基準になっていくのだと、確信するのです。

 

これによって確実に存在する私の理性を基準に精神物質を分離して考察していきました。

これがまさに、心身二元論。

 

ここから、考え方が二手に分かれます。

フランスのデカルトの考え方「大陸合理論」では、

「生まれつき、崇高な理性が備わっている」という考え方。

そして、偶然・不確実なものの排除を行い、理性を中心として考察していきました。

 

一方、イギリスのベーコンやロックの「経験論」は

「生まれつき、白紙の心が存在し、そこに感覚的な経験を重ねることで知性・認識が養われる」という考え方。

 

大陸合理論と経験論を統合したドイツ観念論(18世紀)

 

18世紀になると、この二論を統合した哲学が生まれます。

 

それが、ドイツ観念論です。

 

カントによるコペルニクス的転回

人間はどんな自称も考えられると思いこんでいたが、実際は「認識の枠組み」に当てはめた認識しかできないということ。

 

ヘーゲルの弁証法

相反する二つの主張(テーゼとアンチテーゼ)を統合し、より良い結論(ジンテーゼ)を導き、これを反復することで自己・社会が共に成長し続けるという考え方

 

などが例として挙げられます。

 

このようにして、17世紀・18世紀と、藝術・社会が「自己」についての認識に重きを置いて、「近代的自我」という概念を生みました。

しかし、本来、神が全てであり、人間は完璧ではないと思っていたものを、理想・精神論が活発になり、理想と現実のジレンマを感じることになるのです。

 

ニーチェの言葉(19世紀)

19世紀、ドイツの哲学者ニーチェが現れます。

 

彼の言葉の

「神は死んだ」

 

この言葉を聞くと比較的仏教徒の多い、日本人にとってはそこまで心が揺さぶられるような言葉ではないように感じます。

実際に仏教徒と言っても日本人の信仰というのは独特です。

自身のことを無宗教という人も多く、クリスマスを祝い、除夜の鐘をきいて、そして神社にお参りにいくという、まさにクレイジー

この心の持ちようは日本人ならではだと考えられます。

 

話を戻しますと、ニーチェの伝えたかったことは、神の存在を否定することが目的なのではなく、

 

神が居なくても、私たちは自らを律することができる

 

ここに焦点が当てられていることなのです。

 

我々人間は神に期待し、ただ時を待っているのではなく、自ら判断し、行動できる超人たれ。

 

この考え方には宗教関係なく、学ぶことが多いのではないかと私は思います。

 

同じころ、精神科医であったフロイトユングは、「無意識」について研究します。

ここで発見されたことは、

・「私」とは自身の精神すら思い通りにならない存在であるということ

・自己の中心は自我ではなかったということ

 

このようにしてかつての考察はファクトに基づいて崩れていく訳です。

 

 

優位性の喪失と揺らぎ(20世紀)

 

20世紀になると、第一次世界大戦がはじまり、世界が大きく動き、「私」という存在が優れた存在ではなくなっていきます。狭い中で自分たちは優れていると感じていた者も、自らの驕りに気付くのです。

意のままにならないことが起こることにより、ようやく、「私」は確固たるものではなく、揺らぎのある、また、他者との関係性の中で存在させられているものであることを認識し始めます。

 

 

現代における「私」とは

 

自分の感情や行動であっても自分でコントロールできない領域があることより、

「自己」と「他者」の境界を作ろうとしたが、明確に分けることはできない。

つまり、多くの物事は関わり合いを持っているため、二物の明確な線引きはできないという考え方です。

 

そして今は国民国家(ひとつのまとまりのある構成員としてのグループとしての国家)やイデオロギー(社会・集団が持つ理念)などを兼ね備えた自分らしさというものを作り上げているということ。

 

しかし、それも今や、グローバル化による国民国家の弱体化・メディアによる情報の錯乱・シフトの速さによる自分らしさの希薄化がおこっています。

 

自己の歴史を振り返ってみて

 

いかがでしたでしょうか?

自己というものを振り返ってみると人々の自分自身を悩む姿勢というのはいつの時代も同じで、周囲の環境によっても大きく揺さぶられます。

先人たちのこの経験を生かし、今の私たちが学べること、取り入れられることを考えておき、過去を踏まえった自分なりの考え方というものを持っておくと、似通ったテーマの文章題を解くヒントになると考えます。

 

もし今回の話に興味があれば、ぜひ「哲学」関連の書籍を読んでみてください。

 

 

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