自分で考える

私たちは子どもに何ができるのか

先日、フィリピンの英会話の先生と教育について話すことがあった。

 

夏休みが短くて。でも漸く先日から学校がはじまりましたよと伝えていると、

学校って対面授業やっているの?とびっくりされた。

どうやらフィリピンの学校はオンライン授業らしい。

大阪でも冬を迎えるにあたって、オンライン授業の準備を着々と進めている様子を見ていると、それでもなかなかうまくはいかないなと感じさせられる。

 

子どもが授業を受けるには、やはりスマホでは消耗が激しく、毎日の5.6時間の授業には対応不可能だろう。

実際に4月・5月にオンライン授業をし続けた結果、そのように感じた。

 

日本は教育の平等をやたら重視する。

確かに重要だ。

しかし、本当に平等なのか。公平なのか。寧ろ、そんなことも考えたこともない人が多いのではないだろうか。

この教育の平等を実現するために、学習塾を始めようと思ったのだから、人一倍考えてきたと思っている。

 

オンライン授業ということで何かガジェットが配布されたり環境が整えられたのですか?と尋ねると、オンライン授業を受けている子は一部の子だけと言っていた。出生率は日本は1.42、フィリピンは2.92である。人家族に3人の子どもが平均でいる訳である。

比較的裕福な日本の家庭で考えても、一家に使用できるパソコンが3台あるという状況も珍しいだろう。

日本はこれから冬を迎え、学校がどの段階でオンライン授業を実行できるのかということが課題になるのだと思う。

 

 

近頃教育について興味関心を抱き、その分野の文献を読むことが多い。

しかし世の中に出回っている教育に関する本は少なく、どれもありきたりで、経験則が多く、今行うべきアクティブプランが明快でないものが多い。

親の気持ちというのは、別に皆が皆名門大学に合格して欲しいわけではないのである。

自分の力で考え、社会の一員として生きていってほしいというようなことなのである。

 

現実問題、子どもの将来を考える余裕すらない人でいっぱいなのである。

 

色々な人が責任転嫁して、今までの育て方が悪いだの、理由をつける。しまいには自分の子どもではないからと言って見放してしまう。

勉強なんてやればできる。

本を見て学習することだってできる。寧ろ、大人になってから自分で勉強できないのは、今までなんでも手取り足取り教えてきてもらい過ぎた弊害でもある。

 

勉強よりも、今日は大事なことを話したい。

そう切り出して人生というものを語れる。そういう人が子どもたちの一番身近な存在であるべきなのだ。

 

 

自身はまだ教育というものを語るには不勉強だ。

先人たちの智慧をお借りし、自分の意見を出し、日本の教育に活かしていきたいと思う。