人というものは何かをする際にある程度の想像を働かせる。例えば、娘が新しい友達を連れて家に来たとしよう。その後、何かのきっかけでその子のお母さんと初めてあうことがあったとすればどうだろうか。
何も考えない人もいるかもしれないが、無意識にその子のイメージからどのようなお母さんか、自分と話が合いそうかなどと考えたりはしないだろうか。
たとえ、なんだかイメージと違っていても、自分の娘の友達のお母さんであれば、本当はいい人であるに違いないと思いこんでしまうのではないだろうか。
人は何か新しいことをするとき、新しいものや人を知る時に何かしらのイメージを抱くことになる。
そして少しのイメージの違いであれば、自分の考えていたものに合わせようとすることがある。つまり、本能的に自分の持っているイメージに合わせて対象を見ようとするのだ。
人間は合理化する生き物であるからだ。
宗教の勧誘などにこういう法則が使われていたりするため、私たちは自分たちがデフォルトの時点で既にバイアスがかかっている状態であるということを常に認識しておかなければならない。
先日、森本哲郎さんの著書「私」のいる文章を読み、なるほどと思う箇所があったので引用させていただく。
写真について、森本さんが撮った遺跡の写真を写真家が見て、電線や電柱が写っているのを見て、この写真は使いものにならにと言われたという経験談であった。
森本さんは現実の姿をありのままに映し出しているもの、これこそリアルではないのかと考えるのだ。
写真というのはじっさいをうつすものではけっしてない。
人びとは自分の目でありのままを見ているつもりになっているが、じっさいは、自分の目以上に自分のイメージで対象を見ている。そして現実の事物が自分のイメージ通りだったときに、はじめて、それをなまなましい現実だと思い、反対に、それが自分のイメージといちじるしく違っているとむしろ、現実を非現実のように思ってしまうのである。
つまり人間にとっては、自分の抱いているイメージのほうが現実よりも現実的なのだ。
森本哲郎「私」のいる文章より
何かしらのイメージが先行してしまうことはもうどうしようもないのだ。実際に私たちには他の生き物には少ない、イマジネーションの世界があるからこそ、ヒトはここまで生き残ることができたのだから、その部分を否定してしまっては、ヒト自体の否定になりかねない。
しかし、そこで、何かしらのイメージをもってしまっていることを承知しておくことが私たちにできる対抗策なのではないかと思うのである。
1 thought on “全てを理解できていないことを知る”
Comments are closed.