近頃、とにかく早く塾に入れなければいけないという傾向にあるように思う。
まるで生命保険のようだ。
これはまさに不安産業というものに他ならないのではないかとも思う。
不安産業とは、人の不安によって成り立っている産業のことであり、一般的な言葉ではなく、俗語である。人の持つ不安を煽り、潤っている産業のこと。
親がそばにいられなくなった時に子どもが困るだろうから、
ちゃんとした会社に入ってほしいから
ちゃんとした大人になってほしいから
など色々な理由があるだろう。
近頃、恥ずかしいことに塾がその不安産業と同じ構造をとってきているような気がする。
塾は単なる教育機関に過ぎない。学校と同じで必ずしも成績が伸びるわけではない。ただ、多くの場合、単純に勉強にかける時間が増加することによって成績が伸びる結果となる。
公立高校から有名な大学に行くのは難しいから、大学がもれなくついてくるような付属の有名私学に入ればもう安泰。
ということは、有名私学の高校にはいるためには中学から入っているほうが安心。
そのためには小学3年生から受験勉強が始まるから、それまでにある程度、英語などの外国語は習得しておいた方がいいから。
そうなると、お受験のための幼稚園に入っていたほうが良くて。
となると、2歳くらいから・・
って、いつまで遡れば気が済むのだろうか。
親にとって子どもが無事に生まれてきてくれたことが何よりもの幸せで。
勿論幸せになってほしいという気持ちはあるが、幼い間にしかできないこともあるのではないだろうか。
多くのことを犠牲にしながら勉強だけに時間を費やすのは合理的ではなくて。
色々な分野で活躍し、決して一番である必要はない。
複数の分野においてある程度できる状態を保つことを、中途半端だと揶揄する時代はもう終わった。
今必要なのはその架け橋となれる人材であり、他分野をつなげるコネクターをなれる人材こそが必要になるのだ。
子どもは親元で自由に動ける間に自由に動くのがいい。
失敗しても親がサポートできる間に失敗したらいい。
失敗を経験すること。それこそが大きな糧になるのだ。
失敗を成功に変えるその力は、失敗した人にしか分からない。
失敗は挑戦した人にしか与えられないものだ。
まずは挑戦すること。
そしてその苦しみ、痛み、喜びはきっと挑戦した人にしか分からないものだ。
そこからの学びは間違いなく人生の宝物になるだろう。
自分の好きなこと。得意なことがどう世の中に関わっていけるのか。
私自身は、単なる塾講師としてではなく、自分という個人をこれからも一生演じ続けていきたいと思う。
2 thoughts on “塾は不安産業であってはならない”
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