宿題とは

定期的に宿題の仕方について話をすることがある。

丁度先日、授業の中で宿題について話をした。

宿題は行わなければならないものかと言われれば、正直どちらでもいい。

もちろんやってもらいたいと思って出しているものであるため、やっていないとなると、

「なんでなん?」という気持ちはある。

しかし、だからといって、宿題が終わるまで今日は帰しません。ということを行うつもりはさらさらない。

そこは自分自身の問題であるからだ。

やりたくないなあと思いながらグダグダ行う勉強に意味なんてほぼない。

それでもとりあえず、宿題を形としてやってほしいから、という親御さんの声も聞くが、一生誰かが勉強にしても仕事にしても、手取り足取り見守るつもりなのだろうか。

私が言ったことで生徒の選択を決めてしまうということは、自立性の剥奪になると私は認識している。

やらなかった自分を見つめなおし、それによる悪い結果を自分で受け止め、成長してほしい。

その大事な機会を奪ってはいけない。

失敗を繰り返し、試行錯誤を繰り返して要領を自分で掴んでいくことが重要なのである。

誰かに指図されなくとも、しっかりと前に進んでいく力以外必要なものは何もない。

また、先生や目上の人に何かを言われた時には、「指図されている」という認識が必要である。もちろんそれを行ったほうがいいと思って出しているものである。そこを素直に聞くのもそうだし、もっと別の所をやりたいと思って別箇所をするのも一つである。

どちらにしても、あまり勉強していなかったという自覚があるのならば、テストの点は悪い方がよい。

それに気づき、どう行動を変えていけるか、その時が前進できる唯一の時だということに気づいてもらいたい。