三角関数不要論が騒がれ、少し落ち着いてきただろうか。
話題が三角関数であろうが、どんなものであろうが関係ない。
勉強なんて、使うか使わないかで判断するものではない。
次元の異なる話をしてどうするのかと、思ってしまう。
またもう一つ。
要不要に関しては学んだ本人が学んでから感じるものであり、他者に対していうものではない。
勉強して不要と感じたのは自分である。今の高校生に対してアドバイスするのはお門違いである。
というか、元々そのことを知らない段階では本来使ったほうが便利な場面でその本人が使えるはずもない。
学んでいない人からすると必要性を感じる瞬間などただの一度もやってこないのだ。
やれることは何でもやったほうがいい、ただそれだけである。
こどもたちと一緒に勉強をしていると、色々な言葉を聞く。
「もう算数きらい!難しくてきらいや!」
私はすかさずこう返答する。
「算数もあんたのこときらいやわ。」と。
本人が言ったのと同じ口調で伝えることを心掛けている。
昔読んだ、西田幾多郎の「善の研究」
当時の私には難しすぎて、対峙できなかったことを覚えていて、大人になってからもう一度読んだ書籍である。
その本に書かれていた言葉で印象に残っているフレーズがある。
知と愛は同一の精神作用である。
ものを知るにはこれを愛さねばならず、ものを愛するのはこれを知らねばならぬ。
知は愛であり、愛は知である。
この言葉はよく言われる、「好きこそものの上手なれ」と同意義である。
嫌いやなと思う分野の勉強であったとしても、相手は静のものである以上、最初に歩み寄るべきは自分である。
自分にその言葉が向けられてようやく、自分が吐き捨てた言葉の重さに気付くものである。
私から発せられたその言葉にびっくりする子どもたちもいるが、子どもは、やはり素直である。
好きにはなっていないのかもしれないが、次は算数に対してもう少し優しい言葉で嫌いであることを伝えようとする生徒たちを見ると、あと一歩かなと、彼らの成長が楽しみになってくるのだ。